最近思うコト

人に影響を与えられるような人間になりたい、と近頃よく思う。

昨日はラボの同窓会。前任の教授の時代から今に至るまで卒業した人、関わりのあった人たちがたくさん集まった。集まった人たちの年齢層の広さに、ラボの歴史を感じた。それと同時に、遠くからも都合をつけて参加された方がいらっしゃったあたり、前任の教授の求心力の大きさを感じた。

身体は小さい人だが(笑)その存在は大きいのだ。


研究者として生きていて、何ができるだろうか?と考える。科学者として生命現象の真理を追求するために、実験して結果を出して、論文としてまとめて世に発信する。ついぞ去年の今頃までは、それが科学者の使命であり、自分が進むべき道であると思っていた。が、ある時後輩が発した一言が、自分がなんとなく感じていたことと見事に合致してしまった。


”研究は面白いけど、なんとなく違和感を感じるんですよ。”


探していた、パズルの最後の1ピースが見つかったような感覚。本当に研究を楽しんでいる人と会話をしているときに、どことなく感じていた引け目の理由はここにあった。研究は面白いし自分にも合ってると思う。が、自分の中で一番ではないようだ。


去年のちょうど今頃だったか、学部1年の時に教養課程で美術の授業を担当してくれていた先生と再会した。”そういえばあの先生は確か京都の芸術大に移られたはず”と思い、Googleで名前で検索したらあっさり見つかった(笑)。10年ぶりくらいに会った先生は、以前と全く変わらないか、むしろ若くなったような印象を受けた。歳をとらないのが研究者と芸術家の共通点か(笑)

お願いされて、おこがましくも芸大でセミナーをさせてもらうことになった。お題は、光と生き物の関わりについて。自分が知る限りの光と関係した生命現象を紹介する、自分としてはかなり雑駁な内容だったと思ったが、思った以上の反響だった。

与えたものに対して、明確に応えてくれる。その先生が”ここの大学はいい”と言った理由は、よくわかる。

芸術というのは、ものすごく影響力のあるものだと思う。一枚の絵に、一つのオブジェに、一つの曲に、歴史を越えて一体何人の人が感動を覚えるのだろう。わかり易いところで言えば、先日ZARDのヴォーカルの坂井泉水さんが亡くなられたが、お別れ会には4万人が駆けつけたと報じられている。彼女の音楽は、それだけの人の心を掴み、動かしていたという証拠だ。


立ち返ってみて、研究というのは自己満足的な部分が大きいのではないかと感じる。確かに、世に出した論文が誰かの目に留まりその人の研究人生に影響を与えることもあるだろうし、場合によっては、その成果が世界的に大きな影響を与えることもある。その最も大きなものが、ノーベル賞であろう。そんなに大きなことではなくても、例えば知り合いの先生や友人から”あの論文の仕事、いいね。参考にさせてもらったよ。”と言われたり、自分の論文の引用回数が増えていくのを見たときは、確かに嬉しいものだ。が・・・何か足りないように感じる。


人に影響を与え得る仕事で一番しっくりくるのは教育なのでは、と最近思う。弓道部時代に後輩の指導をしていても、特に苦ではなかったし、上手くなっていく彼らを見ていると嬉しく感じたものだ。研究室に入ってからは、握る物が弓と矢からピペットとチューブに替わり、教える内容が射法から実験技術に替わっただけ。研究者というのは、同時に後進を育てる教育者でもある。

高校の教師にはなりたくないと思った。文科省から”教育指導指針”のようなものが発行されていて、教える分野や使っていい言葉などがかなり限られる。今から見返してみると教科書もわりといい加減なところがあり、そんな状況の中では真実を伝えられないし、科学の本当の面白さを教えられるわけがないと思った。


地方大の教授あたりが自分に一番合っているんではないか、と最近思う。大学なら、自分が見た真実をそのまま伝えられる。教える内容に制限も無い。大学での教育は、芸術ほど多くの人に影響は与えられないだろう。けど、どんな人にどんな影響を与えたかは、かなりはっきりと目にすることができるのではないかと思う。


暫定的ではあるが、この歳になってようやく自分のしたいことが見つかったように思う。さて、これからこの目標にどれだけ近づくことができるか・・・